2025年の大河ドラマは横浜流星主演「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」です。
江戸のメディア王と呼ばれる主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)とはどんな人物なのか、生い立ちや経歴が気になります。
蔦屋重三郎の生涯を徹底的に解説します。
- 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の概要
- 蔦屋重三郎の生い立ち
- 蔦屋重三郎の経歴
- 蔦屋重三郎は本屋・耕書堂
- 蔦屋重三郎は版元(黄表紙・浮世絵等)
- 蔦屋重三郎と田沼意次の関係
- 蔦屋重三郎は処罰を受けている?
- 蔦屋重三郎の死因は何?
- 蔦屋重三郎の妻は?子孫はいる?
- 蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係
これらについてみていきましょう。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の概要
2023年4月27日、2025年の大河ドラマが横浜流星主演の「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺つたじゅうえいがのゆめばなし~」に決まったと発表されました。
“江戸のメディア王”蔦屋重三郎・「蔦重」の波瀾万丈の生涯が描かれます。
- 1月から1年間放送(50回前後)
- 放送時間:NHKBS:日曜18:00~18:45(先行放送)
- 放送時間:NHK総合日曜20:00~20:45
- 再放送時間:NHK総合:土曜13:05~13:50
発表されているキャストと脚本家を紹介します。
蔦屋重三郎役 横浜流星
2019年ドラマ「初めて恋した日に読む話」「あなたの番です」でブレイク、最近は映画を中心に活躍していて、2022年は報知映画賞助演男優賞、TAMA映画賞最優秀新進男優賞、2023年日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞しました。
2023年も「ヴィレッジ」「春に散る」で報知映画賞主演男優賞にノミネートされています。
- ドラマ:列車戦隊トッキュージャー
着飾る恋には理由があって
DCU~手錠を持ったダイバー~ - 映画:きみの瞳が問いかけている
流浪の月
アキラとあきら
線は、僕を描く
大河ドラマ発表の記者会見では、出演決定の驚きや喜びと覚悟、視聴者に伝えたい思いを語っています。
蔦重は商売が軌道に乗ってきたときに、寛政の改革が行われて、自由を失うんです。でも、そんな中、世の中にエンタテインメントや楽しさを送り出した。その姿にとても心を動かされました。このドラマは今の時代に描くべき作品、エンタメの在り方を再確認できる作品だと思っています。観ていただく皆さんの心が楽しくなるような物語を届けていきたいです」
https://natalie.mu/eiga/news/522624
大河ドラマどころか、NHKのドラマ初出演というからびっくり
田沼意次役 渡辺謙
蔦重とどう絡んでくるのか、楽しみなところです。
大河ドラマ6回目という大ベテランですね。
- 1084年「山河燃ゆ」
- 1987年「独眼竜正宗」主演
- 1993年1994年「炎立つ」主演
- 2001年「北条時宗」
- 2018年「西郷どん」
喜多川歌麿役 染谷将太
大河ドラマの出演は子役を含めて5回目になります。
- 2003年「武蔵-MUSASHI-」
- 2010年「龍馬伝」
- 2011年「江~姫たちの戦国~」
- 2020年「麒麟がくる」
田沼意知役 宮沢氷魚(みやざわひお)
大河ドラマには初出演ですが、2022年の朝ドラ「ちむどんどん」ではヒロインの夫を演じていました。
2023年は映画「エゴイスト」で第16回アジア・フィルム・アワード助演男優賞を受賞しています。
鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)役 片岡愛之助
歌舞伎俳優ですが、大河ドラマの出演は4作目です。
- 2016年「真田丸」
- 2020年「麒麟がくる」
- 2022年「鎌倉殿の13人」
脚本家 森下佳子
- 白夜行
- JIN-仁-
- ごちそうさん
- 天皇の料理番
- 義母と娘のブルース
- 大奥
森下佳子さんが本当に楽しそうに蔦重の話をするので、こちらも楽しみになります。
「戦」がなくなった時代だからこそ、いかに生きるかどう生きるか、己の価値、地位、富の有無、誇りのありどころ、そんなものが新たな「戦」としておもむろに頭をもたげだした。
(中略)
現実の所業であるかぎり、理由は一つなんてことも考えにくいだろう。でも、だからこそ、興味は尽きるところがない。つまり夢中だ。
https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1314399.html
というわけで、今の私は自分が夢中になったように皆さんにも夢中になってもらえると嬉しいなと思っています。要はそんなドラマを目指せばいいんだなと考えています。
大評判で放送中の大奥と同じスタッフ、時代も重なって、登場人物もかぶっているので、かなり期待できそうです。
蔦屋重三郎の生い立ち
蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)に生まれました。
父丸山重助(まるやまじゅうすけ)と母津与(つよ)の間に生まれ、のちに吉原で茶屋「蔦屋」(つたや)を営む、喜多川家の養子となりました。
本名は喜多川珂理(きたがわからまる)といい、蔦屋も重三郎も通名です。
生まれは吉原
貧しい庶民の子として生まれ、幼くして両親と生き別れ、引手茶屋の養子となり、血のつながりをこえた人のつながりの中で育ったのが蔦屋重三郎です。
蔦屋重三郎の経歴
蔦屋重三郎が20代半ばまでどのように育ったのかについての記録はありません。
- 1773年(23歳):吉原細見の販売権獲得
- 1775年(25歳):版元となり吉原細見を改革
- 1777年(27歳):吉原大門に店舗を構える
- 1780年頃(30歳頃):吉原細見の販売権独占
- 1783年(33歳):日本橋に移転
- 1785年(35歳):狂歌本や、洒落本、戯作が大ヒット
- 1788年(38歳):田沼意次失脚などの政治風刺黄表紙が大ヒット
- 1790年(40歳):歌麿の美人画大ヒット
- 1791年(41歳):山東京伝の洒落本出版により財産の半分没収
- 1793年(43歳):美人画ブームがピーク
- 1794年(44歳):写楽の大首絵出版
- 1795年(45歳):本居宣長「手まくら」出版
- 1797年(47歳):死去
蔦屋重三郎は本屋・耕書堂
蔦屋重三郎は当初、吉原大門の手前にある五十軒道で本屋(貸本・小売)を営んでいて、吉原のガイドブックと言われる「吉原細見」(よしわらさいけん)を販売していました。
1773年、吉原細見の板株を手にして版元に仲間入りしますが、この頃は鱗形屋(うろこがたや)の独占状態でした。
1974年には平賀源内が吉原細見の序文を書いています。
1783年からは、吉原細見の出版を独占するようになります。
初の出版物「一目千本」(ひとめせんぼん)は、遊女達を木蓮(もくれん)や山葵(わさび)など花にたとえて紹介した実用性のない細見まがいの内容で、一般には必要のないものでした。
しかし、豪華な作りは吉原の得意客や遊女には好評で、制作費も彼らが出資したと思われ、リスクのない事業からスタートするというセンスに驚かされます。
当時の江戸の人達は家族のために奉公する遊女を偏った目で見るようなことはありませんでした。
トップクラスの遊女は財政界の大物とも対等にやりとりをする教養があって、人々が一目会いたいと憧れるスターのような存在だったのです。
蔦屋重三郎は吉原をテーマにした本を出版することで、遊女たちを知的で上品にプロデュースし、江戸の粋なエンターテインメントとしていきました。
しかしその数年後には、遊女の正確な在籍情報を把握して、実用的にも優れた「五葉松」(ごようのまつ)を刊行しています。
こうして順調に商売を始めていくのでした。
1783年、蔦屋重三郎は、吉原から日本橋通油町(とおりあぶりちょう・現在の中央区日本橋大伝馬町)に移転し、耕書堂を開店しました。
日本橋通油町は当時版元の並ぶ町であり、快進撃のはじまりにぴったりな場所でした。
蔦屋重三郎は版元
板株( 本を刷る板木を所有し出版する権利)を持ち、娯楽性の強い本の企画・制作・販売まで一括して行う、現在の出版社です。
版元は組合を組織し、出版権を侵害することを互いに禁止し、海賊版の横行を防いでいました。
江戸後期には庶民の識字率が高く、本を読むことは大きな娯楽でした。
蔦屋重三郎は、まずは当時爆発的に流行っていた狂歌に絵をつけた狂歌本をヒットさせました。
手柄岡持(てがらの・おかもち)、恋川春町(こいかわ・はるまち)という、武士2人の人気狂歌師を起用しています。
身分にこだわらない交流が、蔦屋重三郎の強みでもあったといいます。
版元は時代の流れを読んで、本の内容を指示することもあり、まさにプロデューサー、江戸のメディア王と呼ばれるようになるのです。
絵本には、その後大活躍する葛飾北斎(かつしか・ほくさい)や喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)が起用されていました。
蔦屋重三郎が見出した才能は、喜多川歌麿、山東京伝、葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九といった若き個性豊かな者たちで、その多くは、のちの巨匠となり日本文化をつくっていきました。
黄表紙とは?
蔦屋重三郎といえば、黄表紙と言われるくらい、風刺のきいた黄表紙が大ヒット作になりました。
当時流行していた絵入りの娯楽読み物の草双紙には、子供向けの赤表紙、浄瑠璃や歌舞伎をテーマにした黒・青表紙と、知的な笑いの大人向きの黄表紙がありました。
滝沢馬琴や十返舎一九などの新人作家を発掘して、黄表紙や洒落本を出版すると、そのすべてが大ヒットとなりました。
松平定信が主導する寛政の改革期は、倹約・秩序を掲げて社会を厳しく統制していて、出版も軽薄に時事問題を取り上げることを禁止されていました。
しかし、蔦屋重三郎は実に痛快な風刺を利かせていたのです。
1789年、恋川春町作、北尾政美画の「鸚鵡返文武二道」は風刺に満ちていました。。
武士には武道への精進を厳命する寛政の改革の真っ只中、なんと武士の馬術とは「女性に乗ること」と揶揄し、倹約など無視して遊びほうける武士がいるではないかと、皮肉ったのでした。
恋川春町は幕府から出頭を命じられましたが、直後に死亡していて、自殺したとの説もあります。
浮世絵を世に出した(歌麿・写楽・北斎)
財産の半分を没収された後の蔦屋重三郎が、再起を掛けてプロデュースしたのが浮世絵です。
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、蔦屋重三郎が才能を発掘し、世に送り出したと言われています。
喜多川歌麿
喜多川歌麿は。1792年、画期的な美人大首絵(遊女や茶屋娘の上半身を大きく描写した絵)を創案しました。
婦人相学十躰(ふじんそうがくじゅったい)、婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)というそろった作品を出版し、大ヒットとなりました。
蔦屋重三郎のかなりの助言もあったと言われています。
歌麿の苗字の喜多川と蔦屋重三郎の本名がの苗字が同じなのは偶然?それと苗字をつけたのは蔦屋重三郎なの?
東洲斎写楽
写楽は謎の多い人物です。
役者の大首絵が有名ですが、役者の特徴をとらえてかなり大胆なデフォルメをしているので、役者本人や役者のファンからは嫌われてしまい、絵も売れないために退いたと言われています。
上手いのにあっという間に姿を消しているので、正体は誰なのか、当時から注目があつまっていました。
歌麿が蔦屋重三郎の元を離れたすぐ後に写楽が現れています。
蔦屋重三郎がビジネスのために必要として、プロデュースしたのでしょう。
蔦屋重三郎が作り上げた人物で、実は葛飾北斎だったのではないかという説や、役者の斎藤十郎兵衛に描かせたのではないかという説があります。
江戸最大の謎と言われています。
葛飾北斎
自分と変わらない年齢の歌麿の活躍をはがゆい思いで見ていたといいます。
挿絵などの仕事をしながら高みを目指し、代表作「冨嶽三十六景」を手掛けるのは、70歳を過ぎてからでした。
蔦屋重三郎がこの世を去った後のことですね。
蔦屋重三郎と田沼意次の関係
大河ドラマ「べらぼう」のキャスト第2弾として発表されたのが田沼意次役の渡辺謙さんですが、どのように物語に絡んでくるのでしょうか。
歴史の中で、田沼意次と蔦屋重三郎が出会うということはありません。
蔦屋重三郎は、多くの文化人たちと交流を重ねてヒット作を次々と連発し、“江戸のメディア王”へと成り上がっていきます。
武士の作者もいたということもあり、どこかで出会っていたという新しい設定が登場するのかもあしれません。
蔦屋重三郎は処罰を受けている?
1787年に老中松平定信により寛政の改革が行われ、庶民には質素倹約を促し、贅沢や風俗を乱す者、政治批判をする者を厳しく取り締まるようになりました。
1791年には、遊女と客の遊び方などを小説風に描いた洒落本が取り締まりの標的となりました。
山東京伝(さんとう・きょうでん)の作品が風紀を乱すと摘発の対象となり、手鎖50日の刑罰を受けました。
蔦屋重三郎も財産の半分を没収されました。
その後も幕府からの執拗な弾圧を受け続けますが、反権力を貫き通して、筆の力で戦い続けていきます。
蔦屋重三郎の死因は何?
現在では単なるビタミン欠乏症と判明している脚気ですが、玄米にかえて白米を食べるようになって、将軍をはじめ富裕層に多く発症していました。
一般の武士や町人にもひろがって、江戸わずらいと呼ばれれていたそうです。
脚気は、末梢神経や中枢神経が冒されて、足元がおぼつかなくなったりして、重症化すると心不全を起こすもある怖い病気です。
蔦屋重三郎の妻は?子孫はいる?
蔦屋重三郎に妻がいたのか、子どもがいたのか、明らかになっていません。
2代目は番頭が継ぎ、耕書堂は5代明治初期まで続きました。
作家増田晶文さんの「稀代の本屋 蔦屋重三郎」では浄瑠璃の稽古本や往来物を扱う本屋の娘が妻で、映画「HOKUSAI」で阿部寛さんが演じた蔦屋重三郎にも妻がいました。
子どもがいれば番頭でなく子どもが継いでいそうですね。
たくさん出版はしたけれど、自分の生涯を本にして残そうという気持ちはなかったのですね。
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係
現在の「TSUTAYA」(蔦屋書店)は、蔦屋重三郎の子孫ではなく、創業者・増田宗昭さんの祖父が営んでいた置屋の屋号「蔦屋」からつけたということです。
しかし、全く関係ない訳ではなくて、その屋号は、蔦屋重三郎にあやかって付けられたとも言われています。
まとめ
蔦屋重三郎の生い立ちや経歴、江戸のメディア王の生涯を徹底解説しました。
- 2025年大河ドラマは蔦屋重三郎の生涯を描く「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」です。
- 蔦屋重三郎は1750年吉原に生まれました。
- 吉原細見の販売から、版元として出版を手掛けるようになります。
- 黄表紙や浮世絵など、多くの出版物をプロデュースし、江戸のメディア王と呼ばれました。
- 蔦屋重三郎は、48歳で脚気で
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