令和の怪物と呼ばれるプロ野球・千葉ロッテマリーンズの投手・佐々木朗希選手、WBCでも大活躍です。
東日本大震災を経験した佐々木朗希選手の実家の場所、震災で失った自宅や地元の小学校について調べました。
- 佐々木朗希の実家の場所は?
- 震災で失った自宅は?
- 震災時に通っていた小学校は?
これらについて、みていきましょう。
佐々木朗希の実家は?
佐々木朗希選手の実家は、現在、岩手県大船渡市にあります。
弟の佐々木怜希くんが、兄と同じ大船渡高校野球部所属で、大会出場が記事になっているので、今も、母親と弟は大船渡に住んでいると思われます。
兄は仙台市にある東北学院大学を卒業後就職したということで、一緒にはいないようですね。
東日本大震災後、しばらくは老人ホームの避難所にいましたが、
4年生になって、母親の親戚のいる大船渡に引っ越し、
大船渡市立猪川小学校に転校し、校庭の仮設住宅で暮らしていたと話しています。
校庭に仮設住宅があるため野球ができず、別の場所にグラウンドを整備していました。
振り返ると野球しかしていないとも話していました。
仮設住宅からは数年で引っ越し、現在は、佐々木朗希選手の大活躍もあって家を建ているかもしれないですね。
はっきりした場所は分かりませんが、弟もいるので、学校や友達と離れないよう、近いところに引っ越した可能性が高いと思います。
東日本大震災で失った、佐々木朗希の自宅
東日本大震災、2011年3月、佐々木朗希選手の自宅は岩手県陸前貴高田市の海の近くにありました。
自宅は流され、父親と祖父母を亡くしています。
情熱大陸の取材で跡地を訪れましたが、もう住むことはできない地域で、
ただ草が生えているだけの土地でした。
同じ景色が広がっていて、どこが自分の家だったのか、わからなかくなるほどです。
- 高田松原と呼ばれる砂浜が続き、中心部を気仙川が流れ、リアス式海岸にしては広く平野が広がっています。
- 陸前高田市(広田湾)の津波の高さは18.3m
- 津波が普通の波と違うところは、上から下までが同じ強さというところです。
- 普通の波のは、潜ってしまえば何も感じませんが、津波の場合には力があるので、街にあるいろいろなものを巻き込んでいきます。
- 津波を、ごみを積んだトラックが来たと思った人もいるほどです
それが大きな被害につながるのです。
佐々木朗希選手の自宅があった場所は、情熱大陸の映像から、こんな感じのところなのかと思います。
県道38号線周辺で、遠くに津波伝承館そばの震災遺構タピック45が見えるあたりかと思われます。
このスーパーがマイヤなら、もう少し内陸かもしれません。
3月12日放送の情熱大陸では、
震災後初めて、自宅跡地や砂浜を訪れていましたが、
父親と祖父母についての話はしませんでした。
きっとまだ話すのはつらいのでしょう。
震災当日も、学校から帰ったら、父とキャッチボールする約束をしていたといいます。
父の写真は1枚しかないと紹介していて、写真は少し汚れていたように見えました。
震災後見つかった写真なのかもしれません。
各地で、ボランティアにより、洗浄して持ち主に返す活動が行われています。
そのようにして戻った写真なのかもしれないですね。
震災で多くのものを失ったからこそ、野球とだけはずっと一緒に一緒にいたのかもしれないですね。
震災がなければプロ野球選手になっていなかったかもしれないと話していましたが、確かに、もっと違うことに興味を持っていた可能性もあると思います。
震災当時、佐々木朗希が通っていた小学校は
通っていた小学校は、岩手県陸前高田市市立高田小学校です。
これが被災した高田小学校、令和元年の解体直前の写真です。
現在は、陸前高田市役所が建っています。
佐々木朗希選手は、2011年3月当時、小学校3年生でした。
地震の起きた午後2時46分は授業中でしたが、
津波が見えた先生の呼びかけで、高いところに逃げて無事でした。
血だらけで避難してくる人達も見たということですが、
街がどうなっているのか、わかってはいなかったといいます。
同じ小学校に通う兄と、近くの保育所にいた弟とすぐに合流できて、
安心したと話しています。母親もすぐに会えました。
海から少しずつ高くなっている地形で、海からは1km以上あり、
先生達もまさか津波が来るとは思っていなかったはずです。
1階部分は浸水し、清掃修理をして使用していましたが、500m北側に新しい校舎が建てられました。
解体後、かさ上げ工事をして市役所が建てられたのです。
情熱大陸でも市役所の駐車場で、懐かしそうにキャッチボールをしていましたが、思い出の校舎が移転して建て替えられるのは寂しいことでしょう。
佐々木朗希の家族
佐々木朗希選手は、2011年の東日本大震災で、父と祖父母を亡くしたので、母と兄と弟の4人家族です。
父親の佐々木功太さんは、葬儀屋に勤めていて、誰にでも優しく周りからも愛され、街のリーダー的存在だったといいます。
1人で3人の息子を育てた母
ロッテとの入団交渉の際に同席した、佐々木朗希選手の母・佐々木陽子さんが美人だと話題になりました。
2011年3月11日の震災時には、当時住んでいた陸前高田市の隣、現在実家のある大船渡市にいたという母は、浸水で立ち往生して帰ることができませんでいた。
普段は30分の道を3時間かけて、翌日やっと避難所の3人の子どもに会うことができました。
父は5日後見つかりましたが、祖父はいまだ行方不明です。
保険の営業の仕事をして3人の子どもを育てたといいます。
保険外交員、生保レディと呼ばれている仕事でしょうか。
顧客に寄り添いサポートする仕事、気さくで明るい人柄にぴったりということだったのでしょう。
長男が弟たちの面倒を見てくれて、いつの間にか大きく成長してくれたと話す母ですが、相当な苦労があったに違いありません。
それでも子供たちの野球での活躍は、母の喜びとなっていたことでしょう。
「“寝る子は育つ”で、大きく育てたいと、お母さんは早寝をさせていたそうです。小学生のころは20時に就寝していたとか。佐々木選手はプロになってからもその教えを大切にしていて、いまも早寝を心がけているそう」(スポーツ紙記者)
https://jisin.jp/sport/2089924/
佐々木朗希選手も、母への感謝は忘れていないようです。
母の日のエピソードを聞かれた佐々木朗希選手は、小学生の時100円ショップで買ったハンカチをプレゼントした話をし、プレゼントは金額でではなく気持ちだと話しています。
佐々木朗希選手選手のプロ初勝利のヒーローインタビューで、ウィニングボールを誰に渡すか問われ、「両親に渡したいと思います」と即答しました。
自分だけでなく、両親にと言ってくれたことがうれしくて、大船渡市の自宅でテレビを観ていた母は号泣したといいます。
佐々木朗希選手は両親のおかげだからといいますが、すでに亡くなってしまった人に、というのはなかなか言えないものですね。
母は、息子が有名なっても、変わらず地元で応援し続けています。
佐々木朗希兄は広告代理店勤務?
2018年地元の新聞東海新報の取材に答えた時の佐々木琉希さんです。
佐々木朗希さんの兄佐々木琉希さんは3歳年上で、大船渡高校から仙台市の東北学院大学に進学しました。
広告代理店の電通勤務という噂がありますが、確認できませんでした。
大学院に進んだという情報もあり、それが事実だとすると、修士課程を卒業したのは2023年3月で、就職して1年目ということになりますね。
一般人のため、確かなところは分かりませんでした。
佐々木朗希選手の名前は、兄がつけたといいます。
兄も野球をやっていて、兄の後を追って野球を始めました。
震災で父と祖父母を亡くした後には、父の代わりに弟たちの面倒を見ていました。
3歳しか違わないというのに、素晴らしいお兄さんですね。
佐々木朗希弟は東都大学リーグへ
佐々木朗希選手の弟・佐々木怜希さんは、スポーツ推薦入学試験で、東都大学リーグ強豪の中央大学に合格しました。
2024年中央大学スポーツ推薦の野球の合格者は16人でした。
2024年4月からは中央大学硬式野球部、神宮球場でプレイします。
- 生年月日:2005年4月25日
- 出身地:岩手県陸前高田市
- 身長:178㎝
- 体重:75kg
- 右投げ右打ち
兄と同じ大船渡高校のエースだった佐々木怜希さんの最後の夏は、岩手県大会3回戦敗退でした。
身長は兄より14㎝低い178㎝で、もともとは内野手でしたが、監督にすすめられて、昨年高2の秋にピッチャーに転向しました。
ピッチャーに転向して間もないにもかかわらず、背番号1のエースナンバーをつけ、1回戦では自己最高の球速143kmを出しています。
兄の投球は参考にしていないと言っていましたが、似ているという声もあります。
東都大学リーグでの活躍、その先に、兄との対決という未来があるかもしれないですね。
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まとめ
佐々木朗希の実家、震災で失った自宅、地元の小学校について調べました。
- 佐々木朗希選手の実家は岩手県大船渡市にあり、母親と弟が暮らしています。
- 佐々木朗希選手の震災時の自宅は岩手県陸前高田市で流され、現在も、住宅を建てることができない地域になっています。
- 佐々木朗希選手が震災当時通っていたのは、陸前高田市立高田小学校で、現在は陸前高田市役所が建っています。
コメント
コメント一覧 (1件)
今 わが町 バンザイを見てて
佐々木 朗希さん私の叔母の家のご近所さんだって分かりました。
オバマ 市役所の方に避難してたみたいで 震災の津波で亡くなりました。
高校時代 朗希君とバッテリー組んでた キャッチャーは私の親戚です 応援したいと思います